銀山争奪(完全)・時代・変化
1537年(天文6年)、出雲の尼子経久が石見に侵攻、銀山を奪った。2年後に大内氏が奪還したものの、その2年後に尼子氏が小笠原氏を使って再び銀山を占領、大内氏と尼子氏による争奪戦が続いた。
大内義隆の死後は、毛利元就が尼子氏との間で銀山争奪戦を繰り広げ、1562年(永禄5年)には最終的に毛利氏が勝利を収めて石見銀山を完全に手中に収めた。そして、山吹城には吉川元春の家臣・森脇市郎左衛門が置かれた。
その後、1584年(天正12年)に毛利氏が豊臣秀吉に服属することになると、銀山は豊臣秀吉の上使である近実若狭守と毛利氏の代官である三井善兵衛の共同管理となり、秀吉の朝鮮出兵の軍資金にも充てられた。商業への影響石見銀山が開発された時期は日本経済の商業的発展の時期と重なっていた。
大内義隆の死後は、毛利元就が尼子氏との間で銀山争奪戦を繰り広げ、1562年(永禄5年)には最終的に毛利氏が勝利を収めて石見銀山を完全に手中に収めた。そして、山吹城には吉川元春の家臣・森脇市郎左衛門が置かれた。
その後、1584年(天正12年)に毛利氏が豊臣秀吉に服属することになると、銀山は豊臣秀吉の上使である近実若狭守と毛利氏の代官である三井善兵衛の共同管理となり、秀吉の朝鮮出兵の軍資金にも充てられた。商業への影響石見銀山が開発された時期は日本経済の商業的発展の時期と重なっていた。
update:2009年08月17日
